ひとこと

懴悔について

 1603年、大航海時代にキリスト教宣教師たちが烈烈たる伝道精神をもって宗教活動に当たるとともに旺盛な知的探求心によって全く異質の言語と文化の理解につとめ、その成果として数多くの史料を残しました。聖フランシスコ・ザビエルが1549年に鹿児島に上陸し布教を開始して以来わずか54年にして、日葡辞典を編纂発刊されましたことは、まことに驚異といわなければならない。
 この日葡辞典には、fagi cuyanichi (懴ぢ悔やむ)・Zaixouo sangue suru(罪障を懺悔する)罪科を告白する・あるいは、さらけ出す、など計らいを仏教でいう「懴悔」という言葉を引用し「さんげ」を「ざんげ」に読み替え翻訳したものとされます。
先般 キリスト教の祭司様と懇談しました。その記念に「懴悔」について参究してみたいと思います。
私は、米国の心理学博士が得度を希望した時、「あなたは三時業を信じますか?、もし 三時の業報を信じれば得度の因縁を適います」と、確任し僧侶にいたしました。
「生を易え、身を息え」という命の連々たる働きを無視して仏教の実践はありません。正法眼蔵のお示しを信じずして宗門の僧侶はありません。下記は修証義の一節です。「無常忽ちに到るときは・・唯独り黄泉の趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁
正面・左から、ゴンザレス司祭・私・テラッサ司祭
後ろは神学生のガルシアさん
まえざる邪見の黨侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞る、毫釐も忒わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、善悪の報に三時あり。一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受これを三時という、佛祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。当に知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚く悪道を感得せん惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず佛祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為めなり、人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔るが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。然あれば誠心を専らにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、此功徳能く無礙の淨信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。其大旨は願く我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん哀みを我に分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露の力罪根をして鎖殞せしむるなり。」
私どもの懴悔は今世の因縁のみに限らず三世を踏まえて「心念身儀発露白佛」の請願を前提にし、六根清浄を一挙手一投足、全身心から組み換え行動するを基幹といたします。
キリスト教の懴悔は、現世の「個人の嘆き」、「苦しみや痛みを引き起こすものを罪」とし、その脱却から「罪科を告白し、悔い改め、救いを願う」を生活に反映した信仰の生き方ではないでしょうか。

和尚のひとこと