ひとこと

会津藩士卒禁令と大衆一如の精神

興雲寺に御縁のある五戸町浅水の宮さんのお宅に、寛政元年(西暦1789年)会津藩筆頭家老を勤め得れる家柄の北原采女さまが書かれた、「士卒禁令」という巻物があります。

その年代は、寛政蝦夷蜂起と相まって、ロシアが北対馬まで南進し、占領したポサドニック号事件(西暦1861年)その脅威に対処すべく、江戸幕府は蝦夷地の調査を行い探検させました植民地主義が活発化していた、緊迫していた国際情勢のもと、東北諸藩に蝦夷警備の幕命が下され、その中、会津藩は樺太出兵を内願し、文化5年(1808年)樺太、宗谷岬、利尻島の守備に当たり、多大な犠牲を払いました。

更には、江戸湾警備を命じられたのが1810年、京都守護職就任が1862年、国元の財政疲弊の中、幕府の為、国家の為と会津藩一丸となって忠勤いたしました。

この様な状況のもとに書かれた、この士卒禁令は上面をつくろった、体制維持の理想の書にあらず、将に、こころの通った真剣な書と心得る次第です。

 

3この文脈は、禅門の修行亀鑑に共通いたしております、それよりは、僧堂の修行清規をヒントに作られたものの如くです。内容の検討は次回にいたします。

 

 

いま、話題にする項目は以下の通りです。

一、敵地といへども妄りに田畑を踏荒すべからざる事。

   (敵地なりと雖も、自国の如く・・自他一如の精神は、仏教の基本精神です。)

一、敵地に入て、婦女を犯し、老幼を害し、墳墓を荒し、民家を焼き、猥りに畜類を殺し、

   米金を掠めたり、故なく材木を伐り、作毛を刈たるべからざる事。

   (戊辰戦争の敗者たる、長岡藩、会津藩等、朝敵にされた東北諸藩の戦場下での惨状は、

   人道に反する悲惨極まりない状況でした)

 

4ここに、これまで会津藩の虐げられた歴史を再認識して頂きたく存じます。青森県は、会津藩が斗南藩として移転し、過酷な状況のもと、苦に苦の策で北南部と津軽が合併し誕生しました。

和尚のひとこと