ひとこと

医療と仏教

青森県看護協会 西北五支部 H26・7講演内容一部 

 

 講師としてお招き頂き御礼申します。看護婦さんが坊さんの話を聞くという、現代では珍しい講演会を企画して頂き大変有り難く思います。しかしこの様なことが珍しいと云うことは、仏教が廃れている証です、その証拠にアメリカの心理学者ドクタージャナさんが、私の弟子になり玄妙尼として尼さんになりました、彼女の言葉に「私の患者さんは、イラクから帰り、アフガニスタンから帰ってきた方々です、死と隣り合わせになり精神的にまいった方々を治療しています。10人中7人までは治せますが、残る3人はどうしても治せません、しかし、仏教、坐禅が治す妙薬ですので私を僧侶にして下さい」の発言が何よりの証です。

17 皆様の職場は、お釈迦様が道を求める原点にした環境を仕事場にしています。四門出遊という故事、「生老病死」の観察、それから生ずる不安からの解放を目指し覚者、仏のなったのです。お釈迦さまの呼び名に「大医王」という名称があり、薬師如来という佛名もあります。そのようなことから医療という職場は佛道の原点とも云うべき処ではないでしょうか。医療の医は、「いやす」が意読です。看護の看は、手を目にしてみる はからいの時に使います。「みる」は以下の漢字をいいます、見観看視診回は、「る」をつけ、「みる」、とよむ。

 不安にさいなまれた患者さんの身体、心を「いやす」ために、自分を「無」にして尽すがその本分です。

しかし、生老病死が毎日毎日目の前で繰り返されます、それに耐えうる体力気力が肝要でしょう。興雲寺の坐禅堂に看護婦さんが通うのも当然至極です。

 人の悩み苦しみは、頭で言葉を作り、これを考え、思考思量し、自我と比較分別して発生します。

 

18

お釈迦様は云われました「不思善不思悪」と。生きている身体の躍動に全神経を捧げる、息している一息一息に集中し尽すと、一切が流れます、如何様に悩んでも思いが流れます。しかし人間、考えるように生まれてきました。言葉では理解しても、それをものにはシガタイが現状です。わが興雲寺は毎日坐禅をするのは、そのためです。

 人間良いことを癖にしましょう、癖も3年のすれば自分のものになります。自分のものにした時、自分が変わった証です。

 

 仏教の教義に、「心念身儀発露白佛」、「自未得度先度侘」という言葉があります。

こころ、思い、体、行為から露を出し、生かされるいのちに誓いをする、これが「心念身儀発露白佛」ということです。

懺悔という単語は仏教の言葉です、自己満足の言い訳ではありません、頭を下げる程度の反省ではありません、一切の自分を投げ出し、でるもの一切を出しつくし誓願し地を固める、まっさらな自分に立ち返るを基盤にいたします。

 自分が得するより廻りを得させる、を「自未得度先度侘」と言います、この手段として「一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事」が仕方手段として諭されています。お坊さんに金品を払うを布施と云うのではありません、いのちを治め産業(仕事)もとより布施にあらざるはなし、と。このことを自分の生き方、仕事の仕方、家庭の在り方にしましょう。必ず自分勝手、好き勝手が抑えられ、「和」が先になる生き方が実のります。

今から35年も前でしょうか、弘前大学医局に先生を頂きに通っていた時分、「大学の医局に裏金を払った」と、テレビ報道され国会でも問題にされた事があり、大学の医局、教授先生から医者を派遣する人事権が取り去られました。

当時思ったものです、20年30年したら「これは大変な問題になる」のではなかろうか?と、案の定 今の時代、問題が生じ医者不足で、医者がいないと医療過疎化した地域がいっぱいできました。40000人を超す人口を抱える三沢市の病院には産婦人科が廃業もしくは廃止され一軒もありません。医は仁術という前に、お金の良い所、環境の良い処に集中し資格取り立ての医者が集まっていま、都会の整形外科の宣伝に6人8人と顔を並べる医者の多いこと、嘆かわしい現代の世相です。

 

和尚のひとこと