ひとこと

如何なるか一箇半箇

 道元禅師が「眼横鼻直、空手還郷」を手にして、師匠の如浄禅師に日本帰東を告げられると、浄祖は、「帰国、布化広利人天、莫住城邑聚落、莫近国王大臣、只居深山幽谷、一箇半箇接得、勿令吾宗致断絶」と帰国後の指針を示されました。

 「城邑聚落に住する莫れ、国王大臣に近づく莫れ、だだ深山幽谷に居す」。

これは世間の価値判断を忘れ、二見的な思考行動から離れ、平穏無事な環境に身を置き、定められた佛行を行持していれば、自ずから帰着する(悟成)ことのお諭しです。

 

 「一箇半箇を接得」とは、坐禅に身心一如にした、俗事世情一切を投げ捨て得る貴重な人材の育成のことです。

 そこで、如何にして「一箇半箇を手にするか」が問題になるところです。

 

 坐禅の仕方に、臨済宗系の看話禅(公案禅)と曹洞宗系の黙照禅の2種類に大別されますが、看話禅の方が坐禅精進から言って毎日の日課行持になっているようです。

 わが宗門は、修行時代は決められた予定により多少坐禅が行われ、修行と云う名の

もとに、世間の垢を落とすと評し、厳格シゴキの下に恐怖が深層心理に残るが如く致

します、それが為、トラウマが蘇るが如く、日頃ほとんど実行されません。その為、送行

してから自坊に帰って日課行持にしているお寺さんは幾つあるでしょうか。

 

 看話禅を代表して、衹管打坐と言いますが、ここの処を参究し、信仰にまで持ち上げ、承当を覚し、悟に到るを道に行じ、証悟しなければなりません。

宗門は看話禅を待悟禅と批判し、声高々に発言していますが、果たして到悟禅を日課にしているお寺が全国で何カ寺有りましょうか。

 道元様にしても、瑩山様にしても、悟りを願中に置くなと声高々に申されますが、それはあくまでも、意識の中に悟りを置くからです。

不為の行にして、毎日毎日の行持にこの身心を投げ尽くし、その先に到るが「悟の世界」です。悟は得るものに非ず、到るものです。

その為には、坐禅の計らいを生命活動にし尽し、毎日毎日最優先に坐禅を行うことが何よりです。

 

日常の活動は、意識が行動を左右し、ほとんど自我の範囲で活動が行われます、如何に綺麗ごとを言っても自我の範疇が行動の範囲です。言葉を使わず、考えを無くして生き得るものは坐禅以外には有りません。故に何があっても坐禅、坐禅の行持が先です。

坐禅をやらず、学問の研究、法話、綺麗ごとは一切仏教外、お釈迦さまが言われる外道になります。

 自未得度先度他、身念心儀発露白佛を自覚実行するには、坐禅なくして到りません。

和尚のひとこと