ひとこと

引導法語とたいまつ

 禅宗が死者を弔う葬儀に、読経し供養する様になったのは、中国の百丈懐海禅師(749~814)の頃から始まったといわれます。以来、明治時代まで一般者の葬儀は定めが無かった為、死者を僧侶にする「没後作僧」してから、僧侶を葬儀する手段で行われてきました。

さらに死者に対して引導法語を授ける仏事が始まったのは、中国の黄檗希運禅師(?~850年頃)にはじるものと言われています。

 

黄檗希運禅師が母の溺死に際して炬火を投じ、法語を説いた逸話を紹介いたします。

 

 禅師は早く父に死に別れ、年老いた母親が一人で住んでいる故郷を離れて、すでに20年も経ていた。いかに出家の身といえ親子の情は避けがたく、海山幾十里を隔てて、逢いたいとの思いは募るが、その思いを「僧となっては故郷に帰ることなかれ」という厳戒を以って払うのみであった。母もまた日々募りくる我が子への愛恋の情に堪えかね、遂に失明してしまった。老母は息子に是非逢いたいものと、常に雲水僧を接待して宿泊させ、その度に自ら旅僧の足を洗ってさしあげた。何故かというと禅師の足には瘤が一つあり、よしや目は見えなくても、手で触ってみれば、必ず我が子を探し当てることができると思ったからだった。かくして春秋幾たびか過ぎて、禅師はたまたま母の住む郷里に到り、懐かしいお顔を一目でも見たいものと、我が家に立ち寄ったが、もし名乗ってはお互いに恩愛の情に迷い、離れがたくなることを恐れ、心を鬼にして瘤のない方の足を二度洗ってもらった。母は尋ねた。「あなたは何処のお方ですか」、禅師は「私は江西にいる者です」と。母はこれを聞いて、息子も出家して江西にいるので、殊に嬉しく思われた。かくして禅師は一夜を明かし、翌日早朝に母のもとを立ち去った。その時、途中で旧知の者が禅師を見かけ、母の家に来て、「昨夜はご子息に久しぶりに対面して、さぞや嬉しかったでしょう」と話した言葉に母は仰天し、「なんと、今出て行ったのは我が子希運であったか。これは余りに無情なことじゃ。お前に逢いたいばかりに目の見えぬ身となってしまった、この母を、それと知りながら黙って立ち去るとは、あゝなんと冷たい子よ」と嘆き、「いやいや、どうしても逢わねばならぬ」と、杖を片手に、泣く泣くその跡を追って行ったが、日も早や暮れたころ、禅師はすでに福清の渡し場より舟に乗って行ってしまった。それを聞いて、夢中になって渡し場に立って耳を傾けると、遥か彼方に櫓の音が聞こえる。あれは我が子の舟に違いないと、我を忘れて河の中に入ってゆくと、水は深く流れは急にして、哀れにも母は水に流され、沈んだまま二度と浮かんでこなかった。

 時に禅師は母が、我が名を呼ぶのを聞いて、急いで舟を岸に返させたが、既に母の姿は見えず、断腸の思いで、船縁に身を伏して声を限りに叫んだ。「一子出家すれば、九族天に生ず、もし生天せざれば、諸仏の妄語なり」。しかし答えるものは、ただ流れの早い水音ばかり。ここに到って何を以ってか「棄恩入無為、真実報恩者」、仏子たる者の真の報恩の道を探求せん。

すなわち禅師、大声一呼して曰く。

「我母多年迷自心、如今華開菩提林、当来三会若相値、帰命大悲観世音」(我が母、多年、自心に迷う、如今華開く菩提林、当来三会に相値わば、帰命す大悲観世音)唱え、大喝一声して炬火を河中に投じると、不思議なるかな、その炬火の落ちた処に母の亡骸が浮かび上がり、炬火はなお消えず、ほの明るい母の安らかな死に顔を照らしていた。

 

 これが禅宗に累々と伝承されてきた引導法語と炬火と因縁である。坐禅坐禅で培った禅定力で、今生に未練を残させず成仏させる 偉大さが必定なものと思います。まずは坐禅、坐禅、坐禅です。

和尚のひとこと