ひとこと

読経は「仏の息使い」の体現行

 江戸時代、仏教のお寺が、庶民の住民登録、および管理の任を担いました。徳川幕府は、キリシタン禁制と、社会体制を度外視するとして日蓮宗不受不施派を禁制し、登録寺院で葬儀をしない場合、迫害対象にし、獄門磔にしました。旅行するにもお寺が通行手形を発行し、死亡誕生を管理し行政の担い手になりました。

 この歴史が260年続き、明治に入って廃仏毀釈があったにしろ、数年で解除され以前の体制に期し、今日に至っております。

 葬儀にしろ、回忌法事にしろ、僧侶に読経してもらい、「先祖供養した」と思っております。

 しかし、これが本当の供養でしょうか? これは風習です。拝むこころが自制、自立、自律をなし、安心した生活と子孫育成を養うからです。

 そもそも、読経は、「お釈迦さまの息使い」の体現です、読経したものが自己の体に、心に功徳を得るものです。

 出す息を音にして、

 「いちー・にいー・さんー・しー・ごー・ろーく・しーち・はーち・くー・じゅーう・いちー・にいー・さんー・しー・」、肚の底から息をだし、出し切ったら、肚に吸って、「ごー・ろーく・しーち・はーち・くー・じゅーう・いちー・にいー・さんー・しー・ごー・ろーく・しーち」と、意識を使わず、出す息を音にして、吸う時以外は全部音にする、1から10までを繰り返し、繰り返しお唱えします。そうすると丹田呼吸(お釈迦さまの息使い)になります。これを20分以上続けますと、リズムが出てきて、体が温まり、心に雑念が消えます。

 この「いちー・にいー・さんー・しー」を漢字にしたり、インドの言葉にしたのが「読経」という行です。

お釈迦さまは、自分の息使いを教えるために、大安般守意経というお経を作りました。

 「大」は偉大、「安」は入息、「般」は出息、「守意」は心を守る、まさに呼吸法のお経です。

 私にアメリカ人の弟子がいますが、もし、双子の姉妹兄弟を僧侶したとします。一人は英語しか読み書きできません、あと一人は英語、日本語、漢文も自由です、この二人が同時に修行にでました、さて どちらがお釈迦さまの世界を手にするでしょう。

英語した話せない方が、先にお釈迦さまの世界を手にします。

私たちには、眼耳鼻舌身意があり、その働きがあます。眼は色をみるを司り、「見る世界」と「見えている世界」を担っています、「見る世界」は意識が反映します、「見えている世界」は意識外の世界です、お釈迦さまの世界は、「見る世界」にはありません、意識が反映しない「見えている世界」にあります。耳にしても同じです、「聞く世界」と「聞こえている世界」、佛界は「聞こえている世界」にあります。以下 鼻舌身も同じです。意は自己優先せずに他己を先にします、自己を優先した意は、全部が自我です。「言葉を使い、ものを考える」は、一切自我です。無我無我といわれますが、言語道断、不思善不思悪、心意識の運転を停め念想観の測量を止め、で得られる所以です。

英語、日本語、漢文も読める方は、理解が先になり知識が優先され、いつになっても理屈、比理屈が身心から離れません。

ここにローマ字と漢文の「摩訶般若波羅蜜多心経」があります、ローマ字の心経で読経しますと、純粋に、お釈迦さまの息使い、丹田呼吸法を体現できます。漢文ですと、「色即是空、空即是色」と無意識に文字を理解しようと意識が働きます。ここには釈尊の真意はありません。そして、まして読経して先祖供養などあろうはずがありません。

和尚のひとこと