ひとこと

坐禅と無我説 

 小学生の頃、お母さんと一緒に坐禅に通われた方が参禅に来ました、7、8年ぶりの参禅で東北福祉大に入学し、今一年生、進級して2年になるとのことです。
 東北福祉大は宗門の大学で、校内に坐禅堂もあり、経典にも多少親しんでいる模様です。冬休みの宿題は、「坐禅と無我説」とのことで、参究の糸口を求めて参禅に来た模様で感激した次第です。
これを機会に私も、この課題にチャレンジしてみました。しかし、「無我」に「説」を付け「無我説」としますと、信仰から外れ、学問になり知識になり、実践の妨げになることを注意しながら記載します。
 お釈迦様は、「一切の諸縁を放捨する」が故に、王子の位を捨て出家し、禅定者を訪ね、苦行の世界に入りながら疑問(苦行は自己陶酔の世界)を感じ、菩提樹の下で深い坐禅を行じ、縁起の法を達観し、「さとり」を得たものであります。
 縁起の法は、「これ あれば かれ あり、これ なければ かれ なし、これ生づるが故に かれ生じ、これ滅するが故にかれ滅す」に代表されるように、「世界のあるがまま」の姿の究極を見尽くしたものです。仏教の三法印、正に「縁起の法」を要約した姿 そのものであります。
「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」、これに「一切皆空」を加えて四法印として仏教の教義の根本です。
  諸行無常・諸法無我は、縁起の法の相互観、環境観、世界観です。
一切皆苦・涅槃寂静は、己の生き方観、人生観と要約されます。
 人は、今日の一日は明日も続くと期待し、自分の死に直面しないで生きています、まさに無常なる現実に背を向けて日暮らしの生き方をしている故に、お釈迦様は 諸行無常の事実を諭しました。
さらに、一時の有楽に楽しい楽しいと有頂天になり、思いと通りにいかないと人が悪い、社会が悪いと意気消沈し、自暴自棄になり、日々の自己探求の道を求めません、いまが良ければいゝ、俺が良ければいゝと、日々の反省すらしない。そこで、自己探求(坐禅)は無我(坐禅)に帰着し、安心帰着(坐禅)に到りると、諸法無我の現実を訓導し、安心安住の生き方を諭したのが釈尊です。
諸行無常、諸法無我が法でありながら、世間的な常ダ、楽ダ、真の自己を忘れ「俺がおれがと我を張る」故に、人間の生涯に「苦」が生づる所以を示しました。
我が無くなれば、「苦界は我がつくる」とし、娑婆世界に居ながら苦を感じない涅槃寂静の世界が開けることを宣言したのが仏教です。
仏教には、人間の心理を徹底して追及した「唯識」というものがあります。
私たちの一切の日常生活は、どのように事態にあろうと自我が先行します。言葉を作り、ものを考え計り、行動していますがこれら一切は末那識の範疇です。
「見ている世界、聞いている世界は一切 自我意識の世界、言語思考の世界、末那識の範疇」です。しかし「見えている世界、聞こえている世界等は、自我末那識を超越した世界です」、この境涯をものにするのが坐禅であり、仏教の根幹です。
 坐禅し、無常無我を達観するには、「回向返照の退歩を学すべし」で、自己の外に求めても手にし得るものではありません、知識では絶対手にし得ない「妙関」なるが故に「言を尋ね語を遂うの解行を休すべし」の実践です。「諸縁を放捨し万事を休息して善悪を思わず是非を管すること莫れ、心意識の運転を停め念想観の測量を止めて」の実践です。
 人の頭に二つあり、「頭の頭」と「背中の頭」、頭で坐禅している内は絶対ものにできない世界が坐禅の世界です。背中の頭は吹き上がった時、そのただ中に包まれた時、あなたの身心が無常無我を手にし、その世界たるや涅槃寂静の只中です、苦の世界に入りながら苦がない世界の只中です。(愚僧 未徹)
 「生きている命」と「生かされている命」が、混然一体として躍動し、自他を超越し、識が智に転換し、万物共存、和に包まれた一息一息の現成で、「円成」そのもので生活し得るものとなります。
 是非 坐禅を生活の一部に組み入れ「和円成」の日々を手にしましょう。

和尚のひとこと