ひとこと

佛道至極困難な道程 

 若い時分の私は、しっちゃか,めっちゃか、の毎日でした。陽が高い時は、良い恰好し、仕事に、勉強に、人一倍頑張ります、しかし、夜になると、ムラムラと人格が変わり、人にいちゃもんを付け、脅すは、叩くは、刀を振り回し手が付けられません。今思うと、「よく前科が付かなかった」と思わざるを得ない青春時代でした。闘病生活に入り足かけ3年経過した後半の頃、沢木興道老師の一冊の本に気質変換の種を得、28才の頃から坐禅を始めます。読む本は沢木老師の示す本のみ、それ以外は本箱のゴミに致しました。
 しかし、人間の気質はそう簡単に変わるものではありません。48歳の時、「経営していた会社を潰しても坊さんになる」と、家族関係者一切の反対を押し切って得度(僧侶になる最初の関門)し、金沢の大乗寺に修行に出ます。しかし、「わたしは天国、回りは地獄」の自己中心主義な範疇でしたでしょう。
 自分の人生を転換してくれたのが正に坐禅です。「前科がつかず」、「真っ当な人間にしてくれた」のが坐禅です。その為、興雲寺は、私財を投げ打って「坐禅への恩返し」として新寺建立し、坐禅を広めることが「お釈迦様への報恩」と肚の底から感じております。昔の私の様な「悪の元凶・つま弾きされる人間」を変えてくれた大恩が坐禅にありますので、どのような人間も「坐禅」が救ってくれるものと確信しております。しかし、結婚し、子供を持ち、現代の時代の繁栄を享受している私は「今生は中途半端でケッコウ、今出来る最良を実践するのみ」、「毎日坐禅をし、坐禅に使われる日暮でケッコウ」と、自己満足しながら毎日毎日を誡めているところです。
昔の禅僧には仏教の真の実践者が沢山おられました。沢木老師が絶賛した、至極困難な真の佛道を生き尽くしたお方を紹介し、自分への箴としたいと思います。お付き合いの程・・・
 桃水雲渓和尚は、60代の半ばに、「 放下著 」に代表される「無所有の境地」を実践すべく 乞食の群れに身を投じます。肥前島原禅林寺に住職して五年、お寺の一大行事、結制安居(90日間の修行期間)が終わって、いよいよ解散する時に和尚が行方不明になり、方丈の入口戸に「今日解制、大衆送行、老僧先出、東西任情」と張り紙に失踪しました。弟子の琛州が長い年月探し求め、京都東山の清水寺の近くで、乞食の群の中に師匠を見つけめぐり逢います。桃水和尚は頭髪茫々、ひげが生い茂りぼろぼろの着物をやっと肩にかけ、帯は藁縄、背に「こも」を負い、手には破れたお椀を持っています。弟子がお寺に帰り、自分たちを指導して頂ける様懇願した、問答の末、乞食小屋で寝食を共にする様になりました。
同じ小屋に寝ている癩病患者を一人一人見舞い慰め、何くれとなく世話して歩いた。一人の癩病患者が、感謝の涙を流しながら息を引き取った。その悪臭の屍体を二人で洗い、お経をあげ仏縁を授け終わって、「ここに新仏の残した残飯がある。どれ、新仏の供養を受けるとしよう」と、そう言って、おいしそうにそれを食べ、弟子に「お前もこれを食べるがよい、さぞ腹がへっただろう」。弟子琛州が「いえ、私はまだ腹がへってはいません・・・」。桃水和尚「うそをいうな。この臭い残飯が食えぬ様では、わしの随伴はできないぞ、さあ食え」。弟子琛州は、目をつむって一口呑み込む。すると、忽ちゲッと吐却した。また呑み込み、また、吐くを、繰り返し、「師匠さまゴメン」と琛州が逃げ出してしまった、との事である。それから、滋賀県大津で、商家の土蔵と土蔵との間六七尺の空地を借り、わらを置いて宿となし、炊事の器は何に一つなく、馬の草鞋を売って、得たお金で餅のようなものを買い、それをかじって二年ばかりいたとの事。 桃水和尚が住職の位まで捨て、なぜ乞食の世界に入ったのか?
 道元さまの「諸縁を放捨し、万事を休息す」「名利をもとめず無所得」「 放下著 」という仏教原点帰着の実践にほかなならいものであります。正に今日の文化生活、物質文明の中に流されている私達には真似のできない生き方であります。しかし本来この生き方が自由闊達、何にも束縛されない、何の障りもない佛界の真の姿ではなかろうかと、日々思う次第です。わたしは「今生は中途半端でよい・・・」と自分を慰めながら、しかし、せめてもの勤めとして、朝五時からの坐禅、六時からの朝課、七時からの坐禅程度は勤め無くては佛弟子の恥と心得す次第です。

和尚のひとこと