悲(かな)しいかな 寂(さび)しいかな 侘(わび)しいかな・・・これから報恩行に参じます。
金沢の大乗寺時代、修行(安居)して1年を過ぎた頃 方丈の間に良く呼ばれお話を賜りました。
「新寺建立するなら私が開山になろう」とのお言葉を頂き、御本山様の副貫主が決まってからは、「本山の直末にしよう・・・御直末といわれる」と更に心を固められ「 道元禅師七百五十回大遠忌に合わせ新寺建立しよう」と後押し下さりました。
以来 師弟関係以上のお付き合いを賜り今日に至っております。
7月5日のこと、暁天坐禅、朝課諷経を終ってから、参禅者の方々に、御誕生寺だより第37号の1ページをカラーコピーし参禅者に配布しました.
「横からの朝課諷経のお写真ですが、頬骨の現れが闘病生活の証しながら、無心無心の読経三昧のお顔に、合掌したむくみのお手・・・このお姿から・・・もしかしたら・・・と家内と相談しています」と茶話でお話したのがAM8時30分頃の事でした。
それが・・・一報を頂いたのがPM8時14分、福井県の敦賀に進住した弟子 山本道興和尚からの連絡でした。
早速、身支度をし法衣お袈裟をカバンに入れ8県またいでの道中です。
東北自動車道 岩手山SAにより、軍歌のCDを購入しました。
師匠様がよく話されました「おれが死んだら、君たちの読経はいいから軍歌でおくれ」と、毎回会合宴会なされても最後の絞めは軍歌です。ご病気が進行なされても軍歌が流れますと、シャキリとなされ行進なさいました。
また身近で問題が生じますと青森(私)に召集をおかけします、方丈の間に参じますと、軍歌が大きな音で響き渡り 気分刷新に励まれるお姿が手に取る様にわかります。
この様な事を思い出し、道中軍歌を聞きながらの運転となりました。
三沢から越前武生まで975キロ、長い道中ながら師匠様を思い、大恩を感じながらの十時間です、出発に際し、当山の御本尊様に御祈りいたしました。
「今回のコロナ感染に際し、10県またいでの道中です。コロナ感染は他人に入らず、この体にお入り頂きたい・・・もし感染したらこの体から出ず出さずお留まり頂きたい。もし感染したならば寝ずの接心(坐禅)を実行し共に成仏致しましょう。これからの道中 無理せず焦らず2時間程度で休憩を取り、飯はおにぎり、極力人の集まるところを避け、ホテルに入っても極力コンビニのおにぎりで済ませる・・・サー いざ出発」と誓願を立てて出発しました。
御誕生寺に到着しましたら、「今回のコロナ感染の事態により感染防止が最優先なされる荼毘式との事」禅師様も細心の心配りにお悦びの事と存じます。
7月6日 |
雲衲ほか準備中の境内に到着しました。 |
山内の方々は、住職のご逝去の悲しみを背負い準備に頑張ります、また役寮の方々は、来客の応対に御苦労なされていました。
7月6日 |
方丈の間でお会いしたお顔 お姿は、今生で頂いたお体を完全燃焼なされ、不完全燃焼の処は一つもなく、正に大円成なされた御遺体でありました。 方丈の間から坐禅堂に仮安置なされたお棺に休まれる師匠さまです。 |
本堂は、8日の大夜、9日の荼毘式の準備中です。
御本山監任老師様が早々に御来山なされ、今村老師、副住職と諸方万端協議なされ、有難い次第です。
7月7日 |
ご縁のある方々からの献花が本堂入り口の両側を飾る荼毘式前の外部本堂の写真です。 |
7月8日 |
3時から静岡県修禅寺住職・御誕生寺堂長 吉野真常老師が導師を勤められ大夜諷経が厳修されました。 |
7月9日 |
荼毘式は3時から挙行され、畏くも大本山総持寺貫首江川禅師紫雲臺猊下が御親香賜りました。このコロナ感染防止に最善をすくべき この事態の最中、有難くて有難くて・・・嬉しさがこみ上げて感謝感激でした。 師匠(板橋禅師)の「ありがとうー、ありがとうー、ありがとーさんー」の声が聞こえた様に感じました。 外には禅師様最後の発願行、大仏鎮座を前にテントが敷設され、御尊体(お位牌)と焼香台、お写真に献花・・・ コロナ感染を防止するため、三密を厳守、密葬の様にと願いながらも、禅師様をお見送りしたいとお集りの方々(僧俗合わせ50~60名)が外部で随喜いたしました。 |
7月9日 |
厳かに出棺なされた霊柩車は閑月庵宅を経由し、越前市営の火葬場に運ばれ荼毘に伏されました。 閑月庵さまは「わたし さみしいいけど・・・しかし・・・本当に満足です」とのお言葉を頂き、法弟として心の底から御礼を申し上げると共に励まし合った一時を頂きました。(収骨15分前のこと) |
7月9日 PM3時15分 |
板橋禅師様に結婚式の式師(江川禅師様も同席)をして頂いた、禅師様が「かわい子ちゃん、かわい子ちゃん」と可愛がって頂いた娘の居る滋賀県大津を訪問し、外孫拓士と泰乙から元気を頂きました。 |
7月10日 |
帰りは名古屋東京経由で計画していましたが・・・ 急遽来た道・北陸自動車道で帰ることに変更し、軍歌を聞きながら帰山した次第です。 興雲寺到着は7月11日 PM6時15分 |
嗣法13番弟子 勝春誓約 (この書は閑月庵様にもお見せいたしました)
御本師板橋禅師のお涅槃後の御遺体は、今世に頂いた身体を完全に燃え尽きさせた如く角なく穏やかに和やかに円成しきったお姿を横たえておりました。
夏物の法衣を頂き、奥様が安らいだお顔でしょ・・・と言われる如く有難さが吹き上がったお顔でした。ご存命中に最後の奉公ができず残念至極ながら・・・
六月五日 日曜日 暁天坐禅後の茶話会で先般届いた御誕生寺だより37号をカラーコピーし全員に配布し「このお写真は、最後の一息はお寺で!!と決意なされ、退院して早々の朝課諷経中のお姿と思いますが、生きることに全身全霊を尽くし尽くしたお姿です、合掌した手のむくみが病状の証ですので私家内共・・・・近いものと覚悟」しています」と各員に」お話したのが八時半頃の事でした、それが夜8時14分、弟子山本道興和尚から悲報が入り早々に準備し武生に向かった次第です。途中SAで軍歌のCDを購入し大音響の中での道中です。
これまで、会合での最後の絞めは軍歌でした、如何様なご体調でも軍歌が流れるとシャキリとなされ行軍姿勢にはいられます。
身近に問題が生じますと、方丈の間は大音響の軍歌が響き渡り対話どころではありません、良く「オレが死んだら君たちの読経はいいから軍歌で送れ」と口癖にしていました。
青森からの道中975キロ、この音届けとばかり音を響かせ睡魔どころではなく、師匠と共に耳にしながら到着した次第です。
興雲寺が坐禅の巣窟たりえたのは教えの賜物です。
坐禅が仏法の証、無我の証、安心の証と実践下さり、跡かたを示して下さったお蔭です。
ここに荼毘出棺の前に、これまでのお教えを確実に実践し、今後も永々と実行することをお誓いし、愚僧 終生のお約束、今生の一大誓願といたすことを約します。
令和2年7月7日 19時56分 奉書紙に毛筆にて浄書
嗣法13番弟子 興雲寺東堂 大閑勝春 百拝
御本師
閑月即眞禅師 雲海興宗大和尚 眞位