ひとこと

曹洞宗太祖・瑩山紹瑾禅師の「面授」観

曹洞宗では仏法とは師から資へ、面と向かって授受されるべきという「面授」という概念があります。この概念を確立したのは道元禅師が示された『正法眼蔵』「面授」巻であり、端的に以下のような言葉で規定されてています。

この面授の道理は、釈迦牟尼仏、まのあたり迦葉仏の会下にして面授し護持しきたれるがゆえに、仏祖面なり。仏面より面授せざれば、諸仏にあらざるなり。

道元禅師はここで、通例には面授がなかったと考えられている過去六仏である迦葉仏と釈尊という関係に於いても、面授があったとされます。その意味で、道元禅師は歴史的事実のみを重んじたとは考えられません。むしろ、自らの体験に於いて、過去の事実を積極的に改変すらされます。これは、事実と確認することすらも、我々の知見に依存するとすれば、改変と事実とは程度の問題であり、そもそも客観的事実としての歴史的事実があるということが、よほど非合理的なのです。そこで、今回はこの歴史的事実と、仏法の問題について考えてみたいのです。

最近の研究では、曹洞宗の系統になる大陽警玄大和尚と投子義青大和尚とは、直接に会って話をしたことはないと考えられています。しかし、道元禅師の『正法眼蔵』「仏祖」巻では以下のように示されています。

・・・〈前略〉
観志大和尚   縁観大和尚
警玄大和尚   義青大和尚
道楷大和尚   子淳大和尚
・・・〈後略〉

この巻は、過去七仏以来道元禅師に到るまでの仏祖名をただ書き連ねるという内容で、道元禅師が伝持されている仏法の系統をも明らかにするための著作なのですが、その途中で、明確に大陽警玄と投子義青がつながっていると見ることが可能です。実際には、そうではなく、この両者の間には、臨済宗系統の祖師である浮山法遠が関わっています。それは、道元禅師のやや後になりますが、曹洞宗の太祖である瑩山紹瑾禅師の提唱録である『伝光録』に次のように示されています。

第四十四祖、投子和尚円鑑に参ず。鑑、外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はざるの因縁を看せしむ。三載を経て、一日問ふて曰く、汝話頭を記得すや、試みに挙せよ看んと。師対えんと擬す、鑑其の口を掩う。師了然として開悟す。
    『伝光録』第44章・本則

この一文からしますと、円鑑というのは、浮山法遠のことでありますので、投子義青は、道元禅師が示される師としての大陽警玄ではなくて、浮山の下で悟りを開いたことになります。問題は、この悟りをどの師で開くかということではございません。実際に、道元禅師以前にも何人かの祖師が、或る師の下で悟りを開いたにも拘わらず、別の師から嗣法した例があります。ただ、それと投子の場合は若干異なっておりまして、投子の場合にはこの浮山の下で悟りを開き、同時に、浮山が“預かっていた”大陽の法を、代わりに授けてもらっているのです。これは、「代付」といいまして、江戸時代の曹洞宗では制度として認めるかどうか、かなりの議論がありました。詳細は略しますが、当時から現代に到るまで、代付は「面授嗣法に非ず」というので認められないとされています。しかし、瑩山禅師は認めていた感があります。更にいえば、道元禅師も否定はしていなかったのではないか?と思われるのです。瑩山禅師は、以下の理由をもって「代付」を認めていたように思います。

夫れ浮山円鑑禅師は、臨済和尚より七代謂ゆる葉県帰省和尚の嫡嗣なり。昔日三嵩交和尚に投じて出家し幼にして沙弥と為る。僧の入室して趙州庭柏の因縁を請問し、嵩、其僧を詰るを見て傍より明らむ。諸師に参じて皆相契ふ。汾陽葉県に謁して皆印可を蒙る。卒に葉県の嫡嗣たり。然して又大陽に参ず。大陽、亦機縁相契ふ。故に宗旨を伝へんとせしに、法遠辞して曰く、先きに得処ありと。因て自ら伝取せずと雖も、大陽、卒に人なき故に寄附して断絶せず。後に其機を得て密に付す。此に到りて知るべし、青原南嶽本より隔てなしといふことを。実に大陽の一宗、地に落なんとせしを悲で、円鑑、代て大陽の宗旨を伝ふ。然るを自家の門人は曰く、南嶽の門下は劣なり、青原の宗風は勝れりと。又臨済門下は曰く、洞山の宗旨は廃れたりき、臨済門下に扶けらると。何れも宗旨暗きが如し。自家他家、若し実人ならば共に疑ふべからず。故如何となれば、青原南嶽共に曹渓の門人、牛頭の両角の如し。故に薬山は馬祖に明らめて石頭に嗣ぐ。丹霞も馬祖に明めて却て石頭に嗣ぎき。実に兄弟骨肉共に勝劣なし。然るに唯我祖師を称して嫡嗣とし余を旁出とす。知るべし臨済門下も尊貴なり、自家門下も超邁なり。若し臨済に到らざる所あり劣なる所あらば、円鑑、既に以て大陽に嗣ぐべし。若し大陽劣なる所あり錯まる所あらば、円、何ぞ投子に付せん。然も諸仁者、五家七宗と対論することなく、唯当に心を明らむべし。是れ即ち諸仏の正法なり。豈人我を以て争はんや。勝負を以て弁ずべからず。
    『伝光録』第44章・拈提

これは、瑩山禅師が浮山法遠の経歴を説明している文章ですが、これを詳しく見ていきますと、浮山は先に臨済宗の葉県帰省に法を嗣いでいます。そして、その後に大陽の下に到り、大陽もまたその力量を認め法を授けようとするわけです。しかし、浮山は葉県に法を嗣いでいることを理由にそれを拒否する一方で、大陽警玄にまともな弟子がいないことを理由(ただし、燈史を読むと投子以外の弟子はいる)に、法を預かるとされるわけです。そして、浮山は大陽に預かった法を授けます。これが「代付」なわけです。瑩山禅師は、その代付を認める根拠として、まず、後の臨済宗と曹洞宗に分かれる南嶽懐譲禅師と青原行思禅師が、ともに曹渓慧能禅師の門下だった事実を挙げて、元々同じ流れなのだがら、宗派として違うという宗我見的発想を止めるべきだとされるのです。これは、道元禅師が『正法眼蔵』「仏道」巻に示された以下の言葉を承けてのことだと思います。

しかあればしるべし、仏法の正命を正命とせる祖師は、五宗の家門ある、とかつていはざるなり。仏道に五宗あり、と学するは、七仏の正嗣にあらず。

他にも、同巻には同じような説示があるのですが、結局道元禅師は仏法の正命を明らかにするのが大事なのであり、宗の名前を挙げて競うというような考えとは無縁でした。道元禅師はついに、自分自身が「曹洞宗の祖師」だというような自称は最後まで用いなかったと考えられています。これは、系統を無視するわけではないのですが、仏法という観点からすれば、祖師の系譜というのは、常に二義性を持っています。1つは、各祖師がそれぞれに明らかにしてきた仏祖の系図ということ、今1つは、系図に関わりなく、各祖師が仏法を明らかにしたということ。道元禅師が「正伝の仏法」というときも、実はこの二義性があります。ですので、ご自分が含まれる曹洞宗系の系統については、当然に仏法を正伝されてきたとお考えだと思いますが、同時に自受用三昧として各祖師が自分で明らかにした仏法が「まさしく伝わる」の意味で、「正伝」ともされるのです。

だからこそ、道元禅師は場合によっては、臨済宗の祖師である方や、雲門宗の祖師、或いは唐代の禅者で法系が関係ない場合などでも、同じく正伝の仏法を明らかにされたとして、尊崇されているのです。二義性は、場合によっては1本になる場合がありますし、2本になる場合もあります。そして、瑩山禅師はこの2本になりつつ、最終的に1本になった場合というので、この投子義青禅師の状況をお考えだったと拝察されるのです。

確かに、瑩山禅師は、曹洞宗も臨済宗も同じなのだと言いたい理由があります。それは、ご自分の法系が、徹通義介禅師を経ているということです。義介禅師は、当初臨済宗系の達磨宗の祖師だった懐鑑に嗣法し、その後道元禅師の弟子だった懐弉禅師に嗣法されていると考えられているからです。したがって、義介禅師もこの浮山-投子とは別の意味で、2本の法系を1本にまとめなくてはならなかったのです。ただ、今回の場合との同異を考えますと、似ていても同じではありません。むしろ、浮山のように臨済宗から法を嗣ぐのみで止めれば良かったものを、その後曹洞宗からも法を嗣いだというので、その二重嗣法は批判する者もいたかもしれません。この『伝光録』を読む限り、瑩山禅師も二重嗣法は認めていなかった感があります。だからこそ、後に永光寺に五老峰をお建てになった際には、義介禅師からの(達磨宗系の)嗣法は封印されたと見ることも可能です。

また、瑩山禅師は『仏祖正伝菩薩戒作法』を、道元禅師-懐弉禅師-義演禅師(永平寺4世)と受け嗣がれた写本を受け嗣いでいます。義介禅師は、道元禅師-懐鑑禅師(達磨宗)と受け嗣がれたものを伝持していました。瑩山禅師は、最終的に法脈を義介禅師から受けつつも、作法は義演禅師から受けているということで、おそらく義介禅師を媒介として、道元禅師や懐弉禅師から直接に法を受けた自覚を持っていた可能性すらあるわけです。

話は「面授」に戻しまして、中国の禅僧の伝記を集めた『嘉泰普燈録』の中に、やや問題がある嗣法の例が収録されています。それは、薦福承古という者であり、この者は或る時雲門文偃の語録を見て仏法を明らかにされたというので、雲門の法嗣であると自称し、それが『嘉泰普燈録』にも反映されてしまいました。道元禅師は「面授」巻に於いて、「しかあるを、仏国禅師惟白といふ、仏祖の嗣法にくらきによりて、承古を雲門の法嗣に排列せり、あやまりなるべし。」などと、この承古を徹底的に批判し、また瑩山禅師も以下のように批判されます。

然るに洪覚範作せる石門林間録に曰く、古塔主は雲門の世を去ること無慮百年にして而して其嗣と称す。青華厳、未だ始より大陽を識らず。特に浮山遠公の語を以ての故に之を嗣で疑はず。二老皆伝言を以て之を行て自若たり。其己に於て甚だ重く、法に於て甚だ軽し。古の人の法に於て重き者は、永嘉黄檗是なり。永嘉は維摩経を閲するに因て仏心宗を悟る。而も往て六祖に見へて曰く、吾れ宗旨を定めんと欲すと。黄檗は馬祖の意を悟て而して百丈に嗣ぐ。今の説を考るに、洪覚範、尚ほ知らざる所あるに似り。故如何となれば、大陽の仏法、円鑑に寄附す、豈疑ふべけんや。況や人を得ん、其証拠を遺す。
    『伝光録』第44章・拈提

この文章から見ますと、覚範慧洪を如浄禅師が評価していたのを受けて、道元禅師も評価していたのと違って、瑩山禅師はこの投子義青禅師に関する見解は納得できなかったようです。確かに、薦福承古と同じだと考えて良いかどうかは問題があります。それは、明確に「師の人格」が媒介しているかどうかに相違点があるためで、承古はただ経論を読んだだけ、投子は浮山ではあるものの、師に参じているという事実があるのです。そして、「面授」という観点からすれば、この覚範慧洪の見解は斥けられ、瑩山禅師のお考えを肯定すべきです。その根拠として、道元禅師の以下の一文がございます。

 釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時の面授あり。一世も師をみざれば、弟子にあらず、弟子をみざれば、師にあらず。さだまりてあひみ・あひみえて、面授しきたれり、嗣法しきたれるは、祖宗の面授処道現成なり。このゆえに、如来の面光を直拈しきたれるなり。
 しかあればすなはち、千年万年、百劫億劫といへども、この面授、これ釈迦牟尼仏の面現成授なり。この仏祖現成せるには、世尊・迦葉、五十一世・七代祖宗の影現なり、光現成なり、身現成なり、心現成なり、失脚来なり、尖鼻来なり。
    『正法眼蔵』「面授」巻

こちらからすれば、具体的人格としての師を礼拝した際に、そこには釈尊を始めとする過去七仏、そして五十一世の祖師が現成しているというのです。その意味では、もし師の面に釈尊の面を見るべきだとすれば、それは師の側からすれば、弟子に対して、釈尊の法を代付しているという見解にもなります。実際に、江戸時代に行われた議論の過程では、ここまで踏み込んだ例もあるようですが、詳細は略します。ただ、今後も、この見解を取り得る可能性くらいは残しておかなければなりません。その意味で、「面授」として認められることを確定しておいた方が良さそうです。なお、道元禅師が代付を認めておられたかどうかについて、後の時代に編集された伝記である『建撕記』には、道元禅師が如浄禅師から詳しく指導を受けたと、その内容の詳細が書いてありますが、それはさておいて、道元禅師ご自身が、この大陽-浮山-投子の三者について、どのようにお考えだったかを見ていくべきです。そこで、申し上げれば、まず浮山については『知事清規』などで、葉県の下で厳しく弁道したことを好意的に評価しています。一方で、大陽-投子については、以下の問題があります。

舒州投子山義青禅師、曾謁浮山円艦禅師遠和尚。稍経三載、遠一日問師云、外道問仏、不問有言。不問無言、世尊黙〈ス如何〉。師擬スルニ開口、遠以手掩師口。師於此大悟遂作礼。遠云、汝妙悟玄機耶。師云、設有妙悟、也須吐却。
    草案本『正法眼蔵』「大悟」巻

これは、「大悟」巻の下書きで、後に大幅に書き換えられて75巻本『正法眼蔵』に収録され、この引用した箇所も無くなってしまうのですが、これからすると、道元禅師は投子が浮山の下で大悟したことを知っていたということになります。「大悟」巻という巻名からも、それは理解可能です。一方で、この同じ公案が『永平広録』ですと、次のように変わります。

 投子青和尚、大陽に執侍すること三年。大陽、一日、師に問うて曰く「外道仏に問う『不問有言、不問無言』と。世尊、良久する如何」と。青対えんと擬す。陽、青の口を掩う。青、了然として開悟し、便乃、礼拝す。陽曰く「汝、玄機を妙悟すや」と。青曰く「設い有りとも、也、須く吐却すべし」と。時に資侍者、旁らに立ちて曰く「青華厳、今日、病の汗を得たるが如し」と。青、回顧して曰く「狗口を合取せよ」と。
 縦え口を掩うと雖も、何ぞ鼻の如くならん、設え未だ呑まざること有りとも吐くこと豈労せんや、子と為って師に代わる宗派、遠なり、青天電を休して星氂を激す。
    『永平広録』巻9-頌古33

これからすると、投子は大陽の下で、悟りを開き、そして嗣法したことになります。ただ、これはいわゆる「歴史的事実」ではありません。さらに、この『永平広録』の写本がいつ完成したのか?という問題もありますが、この箇所は書き換えられた可能性も指摘されています。理由は、引用文後半にある、道元禅師の偈頌に「為子代師宗派遠」という言葉があることです。これは、宗派を遠(法遠)に嗣いだと読むことも出来るのです。したがって、道元禅師もまた「代付」を認めていた可能性があるというのです。そのことから考えれば、曹洞宗に於ける嗣法の問題は、「面授」か否か?だけであり、師に就いて学ばない者だけが排除されるということです。テキストを読み込んで分かった気になるだけではダメで、師と人格的なふれ合いが仏祖として現成する必要条件なのです。拙僧つらつら鑑みるに、瑩山禅師という方は、道元禅師の宗教思想をほぼ完全に祖述しておられますし、やや教学的な記述が残っていた『正法眼蔵』を、更に禅宗的なコンテキストに還元したという評価も可能です。したがって、道元禅師と瑩山禅師との見解に大きな違いはありません。今回相違点を指摘した覚範慧洪への評価についても、道元禅師が評価した理由は、中国に禅宗を伝えた菩提達磨大和尚を、「習禅」ではなくて、禅宗の祖師として扱ったという点であり、今回の大陽と投子のことではありません。そして、この箇所のことについてであれば、道元禅師もまた覚範慧洪を批判した可能性が高いのです。

「面授」という、一人の修行者が仏祖として現成するための、極めて大きい儀礼について、瑩山禅師に道元禅師の教えを重ね合わせるようにして学んでみましたが、やはり曹洞宗ではお二人を両祖として仰いでいる以上、このような作業は絶対に必要だと考えます。そして、この作業の継続により、我々は礼拝・坐禅に加えて、両祖の仏面を面授することが可能なのではないでしょうか。また、「代付」に一定の評価が出来れば、昨今お弟子さんへの伝法をせずに遷化される住職さんに代わって、他山の住持が法を預かってそのお弟子さんに伝法を行うということも、可能性として見えてくるのではないかと思うわけです。

 

 

 

~禅話100回記念企画・禅の秘密~

【①曹洞宗は1度途絶えていた!?】
我が禅宗に於いては、仏祖より代々伝わる血脈の系譜を、たいへん重要視する。
釈迦牟尼仏に始まり、28代目には菩提達磨、やがて、臨済宗や曹洞宗系統の系譜に枝分かれし、現在の我々禅僧1人1人に伝わるまでの、凡そ80人以上もいらっしゃる仏祖方が記された血脈がある。
「仏祖正伝菩薩大戒血脈」と呼ばれるこの血脈を、我々禅僧は必ず所有している。
更に、その全ての仏祖方の名前を丸暗記せねばならない。
そして、僧堂安居修行中は毎朝これをお唱えする。(唱える時は過去七仏~釈迦牟尼仏以前の六仏~を加えて唱える)
それほど、代々伝わる血脈の系譜を重要視しているのである。
従って、もしもその系譜が、「実は途中で途絶えていた」などという事があったとしたら、看過できない一大事である。
さて、それを踏まえて本題に入ろう。
実は、その系譜の内容が全て歴史的事実かと言えば必ずしもそうとは言えず、疑わしい点は幾つかある。
今回は、そのうちの1つを取り上げる。
それは、我が曹洞宗の系譜に見える太陽警玄(たいようーきょうげん)(943年~1027年)から、投子義青(とうすーぎせい)(1032年~1083年)への法の伝わり方の問題である。
太陽警玄と投子義青は、師弟関係とされているにも関わらず、実は、この両名は直接会った事さえないのだ。
それもそのはずで、上に書いた通り、太陽警玄は1027年に亡くなっている。
一方、投子義青はそれより5年後の1032年になってやっと「オギャア」とこの世に誕生した。
従ってこの2人は、会えるはずがないのだ。
要するに、師から弟子への直接的な伝法は、このとき途絶えていた、と言って良い。
実際に投子義青は、『舒州投子青禅師語録』の中で、「太陽警玄を識(し)らずと雖(いえど)も (中略) 法を以て親となす」と述べている。
つまり、太陽警玄には会った事もなくて知らないけれど、伝えられた曹洞宗の法を親と思ってこれを受け嗣ぐ、という決意を述べているわけだ。
しかし、永平道元(1200年~1253年)(投子義青より更に7代後に当たる) すなわち我が道元禅師は、『道元和尚廣録』の中で、「投子青和尚、太陽に執侍(しゅうじ)すること三年」と述べている。
つまり、投子義青和尚は、師匠の太陽警玄のそばに仕えて、3年間の仏道修行をした、というウソを書き残している。
道元禅師にしてみれば、法は、問題なく伝えられた、という事をアピールしたかったのかも知れない。
それはともかく、では、実際には、太陽警玄から投子義青へは、どのように法が伝えられたのか?
実は、次のような事であった。
連綿と続いてきた曹洞宗の法を次に伝える事なく、太陽警玄は亡くなりつつあった。
そこに登場したのが、臨済宗の禅僧 浮山(ふざん)の円鑑法遠(えんかんーほうおん)(991年~1067年)であった。
太陽警玄は、この臨済宗の僧に、曹洞宗の法を託して亡くなった。
この法を預かった浮山法遠は、太陽警玄の法を嗣ぐに相応しい者を探した。
そして遂に、それに相応しい者と出会った。
それが投子義青である。
時に、1064年、「この法を親と思って受け嗣ぎます!」と宣言した投子義青32歳であった。
法の代付を成し遂げた浮山法遠(この時73歳)は、これで安心したのか、その3年後に亡くなった。
このエピソードを、「浮山の代付」と称する事がある。
もし彼がいなかったら、その後の我が曹洞宗は、消滅していたかも知れない。

 

和尚のひとこと