本師板橋興宗禅師

本師板橋興宗禅師(禅をきく会にて)

本師板橋興宗禅師
(禅をきく会にて)

三沢市講演会にて

三沢市講演会にて

板橋禅師さまご逝去

悲(かな)しいかな 寂(さび)しいかな 侘(わび)しい ・・・これから報恩行に参じます。

 金沢の大乗寺時代、修行(安居)して1年を過ぎた頃 方丈の間に良く呼ばれお話を賜りました。

「新寺建立するなら私が開山になろう」とのお言葉を頂き、御本山様の副貫主が決まってからは、「本山の直末にしよう・・・御直末といわれる」と更に心を固められ「 道元禅師七百五十回大遠忌に合わせ新寺建立しよう」と後押し下さりました。

以来 師弟関係以上のお付き合いを賜り今日に至っております。

 6月5日、暁天坐禅、朝課諷経を終わり、参禅者の方々に、御誕生寺だより第37号の1ページをカラーコピーし参禅者に配布しました.

「横からの朝課諷経のお写真ですが、頬骨の現れが闘病生活の証しながら、無心無心の読経三昧のお顔に、合掌したむくみのお手・・・このお姿から・・・もしかしたら・・・と家内と相談しています」と茶話でお話したのがAM8時30分頃の事でした。

 それが・・・一報を頂いたのがPM8時14分、福井県の敦賀に進住した弟子 山本道興和尚からの連絡でした。

 早速、身支度をし法衣お袈裟をカバンに入れ8県またいでの道中です。

 東北自動車道 岩手山SAにより、軍歌のCDを購入しました。

師匠様がよく話されました「おれが死んだら、君たちの読経はいいから軍歌でおくれ」と、毎回会合宴会なされても最後の絞めは軍歌です。ご病気が進行なされても軍歌が流れますと、シャキリとなされ行進なさいました。また身近で問題が生じますと青森(私)に召集をおかけします。

方丈の間に参じますと、軍歌が大音響で響き渡り 気分刷新にお勤めなされているのが手に取る様にわかりました。

この様な事を思い出し、道中軍歌を聞きながらの運転となりました。

三沢から越前武生まで975キロ、長い道中ながら師匠様を思い、大恩を感じながらの十時間です、出発に際し、当山の御本尊様に御祈りいたしました。

「今回のコロナ感染に際し、10県またいでの道中です、コロナ感染は他人に入らず、この体にお入り頂きたい・・・もし感染したらこの体から出ず、お留まり頂きたい。感染したならば寝ずの接心(坐禅)を実行し共に成仏致しましょう」と誓願を立てて出発しました。

 

 今回のコロナ感染の事態により感染防止が最優先なされる荼毘式でありますが禅師様も細心の心配りにお悦びの事と存じます。

 

 お会いしたお顔 お姿は、今生で頂いたお体を完全燃焼なされ、不完全燃焼の処は一つもなく、正に大円成なされた御遺体でありました。

 

雲衲ほか準備中の境内に到着しました。

山内の方々は、住職のご逝去を背に背負い準備に頑張ります、また役寮の方々は、来客の応対に御苦労なされていました。

方丈の間から坐禅堂に仮安置なされたお棺に休まれる師匠さまは安らいでおられましたです。

山内の方々は、住職のご逝去を背に背負い準備に頑張ります、また役寮の方々は、来客の応対に御苦労なされていました。

本堂は、8日の大夜、9日の荼毘式の準備中で、御本山監任老師老師が早々に御来山なされ、今村老師、副住職と諸方万端協議なされ、法弟として有難い次第です。

荼毘式前の外部本堂は三密を堅守し、小さくこじんまりを願いながらも禅師様を慕うお方からの献花が本堂両側を飾りました。

禅師様最後の発願行、大仏鎮座の前に敷設された御尊体(お位牌)と焼香台等・・・

雨を考慮なされ、テントが設営されました。

コロナ感染を防止するため、三密を厳守、密葬の様にと願いながらも、禅師様をお見送りしたいと参集下された皆様方が控えました。

有難くも 荼毘式には大本山総持寺 紫雲臺江川禅師猊下のご親修で実施なされました。

荼毘は越前市営も火葬場でなされました。

閑月庵さまは「わたし さみしいいけど・・・本当に満足です」とのお言葉を頂き、法弟として心の底から御礼を申し上げると共に励まし合った一時を頂きました。(収骨15分前のこと)

 

帰路、禅師様に結婚式師をして頂いた、禅師様が「かわい子ちゃん、かわい子ちゃん」と可愛がった娘の居る滋賀県大津に訪問し、軍歌を聞きながら帰山した次第です。

 法嗣として悔いの報恩行でした。

 

嗣法13番弟子 勝春   誓約文

御本師板橋禅師のお涅槃後の御遺体は、今世に頂いた身体を完全に燃え尽きさせた如く角なく穏やかに和やかに円成しきったお姿を横たえておりました。夏物の法衣を頂き、奥様が安らいだお顔でしょ・・・と言われる如く有難さが吹き上がったお顔でした。

 ご存命中に最後の奉公ができず残念至極ながら・・・

6月5日 日曜日 暁天坐禅後の茶話会で先般届いた御誕生寺だより37号をカラーコピーを取り全員に配布しました。

「このお写真は、最後の一息はお寺で!!と決意なされ、退院して早々の朝課諷経中のお姿と思いますが、生きることに全身全霊を尽くし尽くしたお姿です、合掌した手のむくみが病状の証ですので私家内共・・・・近いものと覚悟」しています」と各員にお話したのが八時半頃の事でした。

それが夜8時14分、弟子山本道興和尚から悲報が入り早々に準備し武生に向かった次第です。途中SAで軍歌のCDを購入し大音響の中での道中です。

これまで会合での最後の絞めは軍歌でした、如何様なご体調でも軍歌が根がれるとシャキリとなされ行軍姿勢にはいられます。身近に問題が生じますと、方丈の間は大音響の軍歌が響き渡り対話どころではありません、良く「オレが死んだら君たちの読経はいいから軍歌で送れ」と口癖にしていました。

 青森からの道中975キロ、この音届けとばかり音を響かせ睡魔どころではなく、師匠と共に耳にしながら到着した次第です。

 興雲寺が坐禅の巣窟たりえたのは教えの賜物です。

 坐禅が仏法の証、無我の証、安心の証と実践下さり跡かたを示して下さったお蔭です。

 ここに荼毘出棺の前に、これまでのお教えを確実に実践し、今後も永々と実行することをお誓いし、小生終生のお約束、今生の一大誓願といたすことを証します。

     令和2年7月7日  19時56分   奉書紙に毛筆で浄書

                   嗣法13番弟子 興雲寺東堂 大閑勝春 百拝

御本師 

閑月即眞禅師 雲海興宗大和尚 眞位 

 禅師様は、金沢市大乗寺から大本山総持寺に上がり貫首様を勤められると共に、曹洞宗管長を務め、天皇陛下から閑月即真禅師号を賜った方です。

私が大乗寺で修行した時の堂頭老師(住職)で、一から百まで一切を指導してくれたお方です、また長男宗晃の授業師さまです。

 曹洞宗の僧侶は、三人の師匠様を持つことになっており、頭を剃って仏さんの弟子にしてくれた師匠様(授業師)、修行を終え「法戦式」という戦の場を与えてくれた師匠様(法幢師)、お釈迦様から代々伝わった仏法を授けてもらう師匠様(本師)の大恩ある三人の師匠様です。興雲寺の開山は、大閑勝春の私です、私の本師様が板橋興宗禅師様です、そのため、開闢開山様として勧請いたしています。しかし、この様なことは、なかなか珍しいことで、有難い仏縁法縁と申せます。禅師様は、平成14年10月、「死ぬまで出きる」大本山総持寺貫首の職を辞し、我が宗門の四代様、太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚様がお生まれになった福井県武生市に御誕生寺を建立され、お慕いする良寛さまを念頭に日々行じています。公衆トイレの清掃もその一コマです。お寺にも、一般に言われる本家分家の関係があり、興雲寺は御誕生寺を本家に相当する御本寺様にしています。この関係は、興雲寺が続く限り末代まで続きます。

板橋興宗禅師 略年譜

1927年(昭和2年) 5月20日 宮城県多賀城市下馬にて出生。
父 板橋勘太郎 母 きよ
1944年(昭和19年) 18歳 旧海軍兵学校(76期生)に合格
1945年(昭和20年) 19歳 敗残兵のように帰郷。「助膜炎」と診断され翌日入院。この入院中に父急死(43歳 脳卒中)父の葬儀にも出席できなかった。
1949年(昭和24年) 23歳 東北大学入学 仙台輪王寺に住み込み、大学に通う。「仙台の大学に入ったのは、同級生仲間から4年も遅れていました。その当時の私は屈辱感と劣等感に苦しみ、ノイローゼ気味の生活でした」
1953年(昭和28年) 27歳 3月、東北大学法学部、宗教科学卒業。 4月、大本山總持寺渡辺玄宗禅師のもとで、出家得度。
1963年(昭和38年) 37歳 福井県武生市・瑞洞院住職
1981年(昭和56年) 55歳 石川県金沢市・大乗寺住職
1998年(平成10年) 72歳 神奈川県横浜市の大本山・總持寺貫首、曹洞宗管長に就任。
2002年(平成14年) 76歳 貫首・管長の公職を辞し、現在福井県越前市の御誕生寺住職。
2009年(平成21年) 83歳 百歳現役を目指して日々精進