「君見ずや、絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず・・・」という、お示しがあります、仏教の根幹を示された証道歌と云う祖録の冒頭の一節です。
ここで示された、「君見ずや」の君は、生きている私のことを言っています。
国歌、「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔の生すまで」を歌いなれている国民が、はたしてその真意を理解しているでしょうか。
何事につけ、ひとつの事を、自分の人生指針に、人生亀鑑になされば、豊かな一生を送れるものです、「君が代」を「このいのち」に読み替えてください。
釈迦歎偈という経典に、「娑婆往来八千返」というお示しがあります、この八千返という言葉を違う言葉で言い換えれば「八千代」そのものです。
私たちの「いのち」は、親が有り、そのまた親が有り、累々たる先祖の命の継承に今のわたしが存在します、その綿々たるもの「千代に八千代に」そのものです。
「このいのち、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔の生すまで」と。
さざれ石は、細石と漢字で書きます、細い小さい石が長い年月、想像もつかない重みにさらされ、炭酸カルシュウムや水酸化鉄等が隙間なく侵透し、小さい小石を岩に変化させ、地殻変動等で表面に顕われ、それに苔が生え、みどりの光を放ち、自然と一つになっている。
「この石とこの石は、仲良く合体して、隙間なく一体になっている」。まさに、この姿は、いのちの大事をさとされ、社会構成の元たる、和の象徴にふさわしいものと、感ぜずにはいられません。
ここに、さざれ石があります、水を掛け、じっくりと観察され、合掌し、こころを無心にして見て下さい。
これらのさざれ石は、30年前 奥入瀬渓流から搬出されたものです。
「このいのち、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて、苔の生すまで」