ひとこと

板橋禅師のお言葉 2

板橋禅師のお言葉 2

山本道興和尚の祖院 法戦式終了の翌日 訪問しての懇談

                              H280210

  同行者・宗晃、直子、松本紀禅さん、西山さん、牧野さん、慶子さん、斎藤健司さん

 

 いつも食堂としてお使いの部屋に通される。

 ご挨拶して前半に海軍兵学校時代の話が盛り上がりました。

 

若かりし頃の記憶をたどって話が弾みました、しかし今の平和に包まれた時代の耳で聞きますと多少の違和感を感じる人々もあろうかと存じますが、その様に読まず、当時の波乱万丈な時代を生きたお方のお言葉とお汲み取り下さいませ。

あえて 話ことばをそのまま 修正訂正しないで文章起こししました。

 

禅師様

この人 見おぼえあるネ・・・

宗晃を見て

昨日、祖院で 禅師様の孫弟子が法戦式をしましたから・・・

祝電を頂き有難うございました・・・記念品を持参いたしました。

 こちらは私、興雲寺からの大衆添菜と問候です。

 

禅師様

90になると・・・こうなる・・・顔は見覚えあるし・・・

あんた・・・祖院で・・・

 

宗晃

ハイ、祖院 侍者をしていました宗晃です。

 

宗晃は禅師様に得度して頂き、ここ御誕生寺で・・・禅師様のお弟子です。

 

禅師様

あんたのお寺は・・・山の中で・・・そこで初めてのお寺で・・・

御開山になった・・・坐禅堂があって・・・

 

ハイ、坐禅が毎日の日課です。

私の弟子で アメリカ人の博士、医学博士がいるでしょう

 

禅師様

女の・・・

 

アメリカのドクターで・・・

今回は原子力の博士を祖院に安居させていましたが今回 法戦式を・・・

 

禅師様

なんで 博士ばかり集まるのか・・・ネ

 

真正面に居るのは、法政大学・・・御誕生寺に安居させて・・・

 

禅師様

あんたも博士ではなかったケ・・・ここに居ったでしょ

紀禅さんに

準博士です・・・御誕生寺の会計ソフト、寺院管理ソフトとコンピューター上のことは、彼が全部やったという状態で御誕生寺には大変貢献している・・・お疲れ様です

今回の立職記念・・・文丈老師の声明・数珠・特注の戒尺を記念に・・・

禅師様に一つ質問がございます

 

禅師様

ハアー?

 

海軍兵学校に居られる時 一緒に・・・最後の生徒さんではなかったかと思うんですが・・・橋本正志さんを存じませんか・・・?

 

禅師様

兵学校・・・なんで今ごろ・・・その人はどうしたの・・・

 

恩師ですって

 

西山さん

昭和2年生まれで海軍兵学校に入学されてすぐ終戦になって・・・

第三中から京都大学に進んで・・・

高校の先生を・・・その時の恩師です

 

禅師様

数が多くて・・・もう70年も前の事で・・・

昭和2年生まれですからワシと同じですネ

 

その期 最後の期、何人ぐらい生徒さんいるのですか?・・・

100人ぐらいいるのですか?

 

禅師様

そんなもんじゃないヨ・・・

 

将校の大量生産ですネ・・・

 

禅師様

・・・大量生産だからワシらも入れた、

その頃からもう、そっち こっちで分校とか・・・

そっち こっちに入りきれなかったから・・・

昔は・・・200人・・・全国から・・・

だって戦争が激しくなって!!!

我々の頃から・・・ワシは機関課の方に回されて舞鶴の方で・・・

『暁映る青葉山 野は紫に山青く綾羅の色に染めなして・・・』

ワーハーハー、写真 撮られいたっケ・・・(海軍桟関学校の歌)

 

 

 

 

 

 

 

体を揺さぶり歌われる

今の軍歌は、今まで聞いたことがないですが?

会合で流す軍歌は・・・これ初めて聞きます、機関学校の・・・?

 

禅師様

これは めったに・・・

其れは、ダンダン・・・アホになって・・なってくるから、

そう云うのは覚えているが・・・

オレも学校・・・小学、中学校、海軍と色々学校出ましたけど・・・

やっぱり一番懐かしいのは、

それも一年もおらず 一年そこそこ、

10カ月分ぐらいですけど、一番懐かしいのヨ・・・

殴られて 殴られて 

時に・・・それが・・・それが一番・・・

それぐらい印象!!・・・

毎日殴られて・・・

殴ってくれた上級生が卒業、去る時は・・・

その人に ほんと しがみついて・・・泣いたもんネ。

ワシ 今まで男泣きしたのは・・・

それぐらい印象 有る 学校ダもんネ。

それでね・・・第一にネ・・・お国の為、お国の為・・・

今はお国の為、・・・言葉がないでしょう!!

・・・自分のため 家族の為、自分中心でしょう、

昔は お国の為があった・・・ワシの頃は軍歌も・・・

それでも 負けと云う意識がなかった、

最後まで戦うんだ・・・なかった

今の第一 そう云う・・・防衛大学の様な所の生徒が松林に行って・・・学校の行事ですヨ・・・

松も・・・したたる・・・松根油と云うんでネ

松油で軍艦やら、飛行機を飛ばすというんですから・・・

それは・・・

あともう一つ、

それと海軍の、エリートの中のエリートで有りながら、

タコ臺を掘って・・・穴を掘って、中に潜んでいて・・・

上に草葉を置いていて、

上を戦車 通る時・・・そこに爆薬を出してパーと・・・

戦車と云うのは・・・ワシらタンクと云ったのですが、

戦車の一番弱いのはそこですからネ。

そこに・・・と、そんな・・・タコ壷、

そんなことの練習までして

あと海軍・・・陸軍・・・そんな時代ですからネ。

それでも、負ける意識がない・・・

負ける時は日本全体が負ける、

日本人に負ける 意識が全くなかった、

沖縄までやられたのは知っていますけど、

沖縄・・・最後の一兵まで戦んだと云う意識が、日本中が燃えていた。

それを急に・・・あと・・・

今日天皇陛下の玉音放送が有るんだ・・・

「・・・・・・・・」

皆が・・・に一つに並んで聴いたんだけど・・・

陸軍がいたずら・・・一般人に聞こえない様にしたらしいネ、

そしたら、あの ソビエトの宣戦布告だ、と言う風にワレワレ・・・

そしたら、一週間前に満州の方から侵入して来たです、

それで、ソビエトとも戦うのか と云っていたら負戦になって・・・

そこで負戦になって・・・

今までと生活が違いますからネ、

嬉しかったネ・・・

母親の所に帰れる・・・

米の飯が食える

それで・・・腹減ってる ですから・・・

あゝ 二人集まったら、腹減って、腹減って・・・

だって学校の・・・学校の・・・朝、昼だの・・・

みんな、ご飯が盛られているですネ・・・

そしたら・・・サツマイモのツタ!!・・・

それで 隣の奴が目を向けるんですネ

ご飯の量が・・・多いか、少ないか、それだけダ、

そうして サツマイモのツタが多いか、少ないかと・・・

その日一日中腹減っている

人よりちょっと多いと一日儲かったと・・・

そんな もう・・・

その頃から、学校の中で栄養失調が大勢出ましたネ。

その頃は まだ栄養失調が日本に名前がでていませんでしたから、

それを皆栄養失調になっちゃて・・・

そして帰る一週間前かな・・・

走るとキューキューと、痛いです、痛いもんだから・・・

あゝ、その前に・・・ベットが濡れているんですネ

朝起きるとワシの所・・・寝小便みたいに濡れているんですネ

恥ずかしくてネ ベットを毅然と・・・

恥ずかしいい・・・寝小便したみたいに・・・

キューキューと痛いからトイレに行って、

便所に行ってキューと休んでいると・・・それぐらいの・・・

 

帰って来て翌日、

ワシの家は宮城ですから・・・どうも苦しい苦しいというので、

近くのお医者さんに来てもらったら、

ハー これは 肋膜ちゅうと云うんだ。

そして、注射で取って 洗面器に半分ぐらい・・・

取れたね・・・ワハハー・・・

その後・・・あそこに一週間ぐらい居たら命なかったでしょう。

それから4年ぐらい・・・結核ダ なんだかんだ 苦労して

グーたら グーたらしていて、仙台の輪王寺当たりで・・・

不思議な縁ですね・・・

マー、お楽にしませんか!!

 

 

 

 

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