ひとこと

カトリック教会の司祭との対談

 以前参禅に来たことがある三沢カトリック教会の司祭様から依頼を受けました。今ローマで勉強しているホセ・ゴンザレス司祭が対談及びインタビューしたいとのことで9月25日実現いたしました。
 三沢のテラッサ司祭が坐禅にも興味があるみたいで、坐禅後2時間程度楽しい懇談をいたしました。
「もし、イエス様が西から東に向かって歩き尽くし、お釈迦様が東から西に歩きつくし、途中で会ったとしたら、お互い目を見会って抱き合い、仲良く暮らしあうし平和な社会を作ろうと歓喜の涙を流しあったでしょう」と話し合ったものです。ローマから来たゴンザレス司祭は学位(?)論文に「日本人の理性」程度の題で参究中とのことで当寺がそのヒントになるものと訪問したとのことです。
日本は島国で今から3万5千程度前、バイカル湖付近で遺伝子の変異した一団が樺太方面から、また朝鮮半島の方から海を渡って縄文人の元をなし、今から3千年程度前コメを持った集団が渡来、しかし100程度の集団にせいぜい3人5人程度の入植者のため、「コメの種と耕作方法の伝授と交換に私たちを仲間に入れて下さい」とお願いし仲間に入れてもらった。さらに時代は進み青銅器
時代、鉄器時代に朝鮮、中国の動乱の際に権力に負け避難した沢山の人々が原住民の集団と合流しました。これも「文化伝播の代わりに仲間に入れてもらう」形態に融合したものと思います。「自分の意見に賛同するもの集まれ」という発想が生まれず、「あなたの意見とこちらの意見を融合させる行動基準が培われ、日本人の感性が育った」ものと思います。更に日本は四季のメリハリがはっきりし沢山の草木に恵まれ水の多いところです。田植えはいつまで、草取りはいつまで、コメ刈りはいつまで、と作業の日程が厳守され、もし時を逃せば餓死を招く、と自覚しながらの作業です、その為、助け合い(和)ながら就労する厳格が織りなされ、勤勉精進の特性が自然と身につきました。良く外国人に申します、「アメリカ人は遠くの山を見ます、私たち日本人は木の枝を見、葉を見る」と、その為 米国人の様な大局的な思考は苦手です、しかしある物の改善工夫は繊細な感性で最高の物に作り替えることができる人種ですと。キリスト教にも坐禅に共通する「黙想」という行があると聞きます。多分 聖書の一文を頭に置き深く深く参究し、神の心と一体になり尽くし悟成する行ではないかと意見を交わしました。
 私どもの坐禅は不思善不思悪、言語道断、この身心から言葉を取り尽くし、言葉自体自我の範疇として いのち の根源、命の源 宇宙の法則(真如)と一体になることを行ずるが坐禅であり、仏教の基点ですと意見交換した次第です。仏教には「自未得度先度他」という言葉があります、自分は苦労しても周りを楽にしてやるという心です、働くという言葉は「端を楽にする」はたらくになりなした。この心が有るがゆえに『和』生じます、自分の得は二の次、奉仕の精神と慈悲の心の違いがここから生じます。日本人は神様と良く言います。これは命を育む一切のものを敬い崇め、それに「神」を付けました、大地の神、水神、石の神、山の神、風神、雷神、日神、・・・等々、数得れば切りがありません。敬い崇めを先にしますと欲得に苛まれ落とし穴に落ちることが無くなります(自我滅却・無私奉公等)。
キリスト教の「神」と全く異質のものですので日本人に布教する時は要注意です。
布教をする際にも、言葉を先にした布教があとあとです。まず汗を流しあい、泣き涙を流しあい、同じものを食べ合い・・・こころが通じあってからの言葉(布教)ですので要注意です。
今の時代、地震津波の時はこころを一つにしました。台風で被災された時は無心で助け合います。
しかし平時に戻れば、好き嫌いが先、自分に得か損かが先、と自分勝手になり易い、個人尊重、人権尊重は自我優先です、これら一切は自我が作り出しますので、ともに和のために頑張りましょう。

和尚のひとこと