ひとこと

百日禁足

山本道興さんが、大本山総持寺祖院に上がったのが昨年1022日でした。上山して、玄関の外にある木版(打って音を合図する鳴物)を打って微動だにせず立ち尽くし、応対を待ちます。3時間もしたら新しく入る僧侶を担当する雲水(修行僧)が出てきて、挨拶問答をかわし草鞋を脱ぎます。これから旦過寮という小さな部屋に入れられ、食事トイレ就寝以外は坐禅のしどうしの期間1週間程度を経て、お山の雲水と認められ、坐禅堂の単(坐り寝る場所、広さ1畳)を与えられます。これから百日、お山の境内から一歩たりとも外出を許されない禁足に入ります。一般社会から僧侶になった者は、ゼロからの出発です。

赤ちゃんが母親を慕い、オッパイを吸い、排泄し、休み、言葉を憶え、よちよち歩き、意志の伝達を習うがごとく、まさにゼロからの道程であります。

お寺の鳴らしものを憶え、着物衣袈裟のみじろぎを憶え、歩き方、声の出し方、お経を憶え、先輩雲水の目を直視せず、笑顔で歯を出すことすらできません。

これまでの社会的地位、肩書き、学歴、経歴、所得等一切を放し忘れて、自分で判断し「何をしよう」、などはできません、新聞・ラジオ・テレビ・雑誌等一切厳禁、公衆電話・携帯電話など使用禁止です。

社会の事件報道娯楽、家族関係・社会関係等から隔離し、お寺の行持に一切を捧げ、自己探求、自己究明に埋没する百日です。

 よく佛典祖録を見ますと、諸縁放捨、万事休息、自他一如などの言葉がありますが、百日禁足は、この実践場であります。

 道元禅師の普勧坐禅儀に、「須く言を尋ね、語を遂うの解行を休し、須く回光返照の退歩(生かされる躍動の光で自己内を照らす)を学すべし、放捨諸縁、休息万事、不思善悪、莫管是非、停心意識之運転、止念想観之測量」と、ありますが、それをやり尽し、全山一体一如、毛穴から入れ尽します。

 私たちの五感六識は、無条件に自分、自我を最優先に生活し、無意識(末那識)にまで落ち込んで、もがき苦しんでいます。

自分が最優先している内は、二の見方という二見に拘束され、「自分と他己が一如一体」になり得ません、二見という見方は、善悪、是非、得失、取捨、好嫌、愛憎、利害、異順、勝敗、盛衰、会離、苦楽、存亡、禍福、有無、老若など、比較分別の基準で見る見方です。

日常は、自我自己を最優先に生きていますので、その払拭は至難困難です。

しかし、無意識の底の底(阿頼耶識)には、「生かされるいのちのはたらき」があり、何物にも侵されがたい「はたらき」が躍動しています。このはたらきは、動物植物、地球宇宙の働きと共鳴同調していますので、これがはたらき出ますと「一如ならざるはなし」の境涯に至り、この境涯を禅語で閑葛藤、没交渉、没蹤跡、莫妄想、閑機境、閑不徹、無所得などといい、この「はたらき」を手にするのが修行です。

百日もすれば「変わるヒント」が吹きあがります、百日もすれば、体も変われば、こころも変わります。意・識が転じ、智を得る道程が開けます。

私は、48歳で修行にでました、50歳を前にして体力が衰える前にと、家族会社の関係者の反対を押し切って、金沢の大乗寺で修行いたしました。

しかし、道興さんは60歳で修行に入りました。私以上に大変を大変が輪をかけているものと思います。それを克服するには、道心堅固につきます。

和尚のひとこと