ひとこと

仏性と佛 =工学博士の弟子を思って参究 

 私たち僧侶は、修行に入るに際し、「如何なるか仏」、「如何なるか佛道」を念頭に、眼目に、昼夜弁道いたします。この様な覚悟を持たず、ただ住職資格を取るため、職業訓練みたいにその期間を過ごしますと、真の教えを手にすることが出来ません。しかし大方は、その様に軟弱な期間を経て社会に帰還します。そのため、社会の激動に堪え得れず、悶悶たる悩みを救い難い体制が現在の状況でしょう。
 有無を言わず、一切が存在する現実の世界の成立ちは、無限の法・則、光・熱・物、動の創成なるビックバンから始まったといわれます。
 宇宙最初の物質なる素粒子が生まれ、素粒子が集まって陽子・中性子に転位し、原子核ば素生し、原子核と電子が結合合体し、万物形成の根本なる原子が生まれたとのことである。このときは水素原子やヘリウム原子など、軽い原子しか存在しなかったという、それらの物質が密度を増し、ガス状になり、やがて合体収縮、離散集結し、球体になったと考えられるそうです。宇宙が生じ・銀河が誕生し・太陽系が形成され・惑星が出来・地球が生じました。天と地とその間の一切の存在があり、生命誕生の奇跡が存在し、有情と無情・存在と空間と時間と起源・再生・起滅、一切を存在たらしめた物質、法則(回転力、合体離散力、重力、引力、遠心力、発光力、磁場磁力・・生命活動)の一切、指摘し網羅しきれない空間、存在、時間の処、名づけて名のつけ様がない働きが対象の世界です。
 このことを、佛性といい、法性、性海、真如とも云われ、本来の面目、空劫已前の自己、父母未生の面目、田地、唯一心、などとさまざまに表現されます。この境涯たるものを自覚、覚悟、悟成した者を佛と言います。しかし、この働きを手にするには、日常のはたらき、生活のなか、人間の動き計らいではものにし得ません、尋常にはいきません。良く、「行住坐臥、禅にあらざるなし」と口先を先にする方がいますが、その様なものは坐禅を知らず、佛性を知らず、坐禅を鴨居上に安じ、仏を棚に揚げ、教えを痩せさせる者です。
 自我を滅却し、言語道断、諸縁放捨、万事休息、一切為さず、の処に現成すると言われます、して見ると、日常の生活では、意識が行動の基準になり、判断し行動する活動の中では実現しがたい所以です。
 わたしたちの心理構造と行動は、阿摩羅識(無垢識)、阿頼耶識(蔵識)、末那識(自我識)、五感六識(眼、耳、鼻、舌、身、意、の各識)で千変萬化いたします。 阿摩羅識(無垢識)は一切の存在と溶け合う働き、阿頼耶識(蔵識)は生命誕生以来の思考念想行動の種子を蔵するところ、ここまでは思考なく、二見の働きが存在しないとのこと。しかし末那識(自我識)を経過通過した時点で自我優先が先に立ち、自己中心的な思考念想行動が生まれます。
 坐禅は、言語道断、諸縁放捨、万事休息、一切為さず、を体現する行ですので自我忘却、自我滅却、「名づけるに名の付けようがない世界を手にする」には、必要不可欠の存在です、坐禅以外にはありません。その世界たるや、時間なく、分別なく、苦楽なく、動止なく、安楽たる光明の世界です。
終わりも無ければ、始まりも無い。
持続して調和が保たれ、変化して調和が持たれ、
成るようにして成る、時間空間存在の世界、有るものが如何様に変化しても、有るがままにある世界、生まれた先を知らず、死んだ後を知らない世界。
釈迦様は、一切を脱ぎ捨て、頭で考えることを卒業して仏になりました。億万分の一でも近づきたいものです。
 自己保身を優先すれば、「和」が損なわれます、自分が楽して他人に苦を与える計らいは、和に反します。佛教の「自未得度先度侘」は、「自己未だ渡り得なくても、他を先に渡す」心使いです、北に伝わった大乗佛教の実践(生活)の本幹です。一流品を身にまとい、マイカーは高級車、過少申告して少額の所得税ではいけません。国民全体心血を注いで仕事し、結婚し、子を作り、家業を立て、社会の役に立つ(治生産業固より布施に非ざることなし)。仕事から逃げ(堪忍を為す)弱者気取りして泣きつく様では社会が滅び国が成り立ちません。

和尚のひとこと