私達は、生まれて名前を頂いて以来、「・・ちゃん、・・ちゃん」と呼ばれ、「まゝまゝ、ばゝばゝ」を覚え、言葉による欲求と拒否を覚え、言葉が一切の行動に反映されるよう養育され教育され習慣化して生長します。この自分・自己・自我という基準が、個人から家庭に至り、地域社会に伸び、国家に拡大し、人類の文化が形成され、円満に思える社会が形成され今日の繁栄がもたらさせられました。しかし、その反面自我の横暴がはびこり、わたしが好ければ他人の犠性はお構いなし、人、動物、植物、あげくの果てには自然までもおかない無しの現代社会です。あげくの果てに思い患いが積もり積もって自分で自分のいのちを断つ方々が3万人を超える社会現象に至りました。
今こそ、この様な現代社会に啓蒙と是正が必要ではないでしょうか?
地球に生命が誕生して一切の「いのちの元」は「一つ」、と達観されたのがお釈迦様です。
この生活基準がこれからの世界に必要不可欠なものでないでしょうか。
これを手にする為に坐禅があります。言葉を忘れ、思い計らいを離れた意識の底の底を手にし、「あなたも私も同じ、草木のいのちも此のいのち、お互いの立場をともに共有する」、これがこれからの生活指針に為らなければならないと、つよく感じます。
人間の身体は悩んでいません、悩んでいるのは私達の頭です。
坐禅は悩めないこの身体に一心を捧げ、意識を使わない計らいに昧没する行です、この行を行じていますと自ずから「生かされているいのち」が噴き上がり、自他一如が万人に与えられます。
古来、このことを先人が云い残し、わたしたちの人生指針に遺されました。「一意専心・一点集中・自己滅却・滅私奉公・自己犠牲・言語道断・行思一如・自他一如・修証一如・不識・黙、等々」いろいろなお示しになりました。
この世界は、やった者の手にする世界です。
やらなければ手にし得ない世界です。
身体が覚えるまで務めることです。
背骨をのばし、足は結跏趺坐もしくは半跏趺坐(椅子でも十分)、手には法界定印、目は45度にして半眼、耳と肩を対し、鼻と臍を対し、鼻で息を吸い、鼻で息を出す、だす息に一心を捧げ、また息ずかいに躍動する筋肉に一心を捧げ、意識の働く動き・音一切を止める・・・、さすれば自ずから意識が消え、言葉が消え、こころも無く、時間感覚もなく・・・、地球のエネルギー、宇宙のエネルギーがわたしどもに入るを感じます。その世界たるや、あるもの一切が輝き、からだが溶け合い、同化し合うそのものの世界です。雨の音がわたしを証明し、鳥の声がわたしになり、草木のひかりがこのいのちを包みます。
仏行には、信心と証悟の絡み合い、まさに縄のごとし と存じます。
信心を与え、信心を求め、此れのみでは仏行の半分にも未足りません。
このいのちを感応道交させ、証悟にいたる日課がわたしどものなすべき第一眼目ではないでしょうか。
僧侶の方々は、5時に起きて坐禅を日課にしましょう。毎日毎日坐禅を行じましょう。暁天坐が佛祖への報恩行です、自己を仏にする仏行です、蒲団の中には仏行はありません。夜は、時間になったら寝ましょう。お酒、テレビのなかには仏はいません。この意識を転じ、この身体を仏にする。これが佛祖嫡嫡の行です。文字を弄んで意識を高めてもそれはあくまでも知識の内、知識では人は救えません。この身に宿る仏が人を救い円滑な社会の先達になるものではないでしょうか。
いま坐禅が求められています、これまで二者択一の世界から離れ、安住し得る世界を求めて坐禅を希求しております。昨年アメリカ合衆国フロリダから坐禅を求め2週間滞在した方がおります。米国心理学者が三年半暁天坐禅に随喜し得度致しました。
彼女の発言です。「わたしの患者さんでイラクから帰り、アフガニスタンから帰国し、あたまを病める方々を診ています。しかし十人中七人までは治せますが三人はどうしても治せません。これを治すには仏教の実践、坐禅、教義が治せますので、わたしを尼さんにして下さい」との切なる要望でした。
また、13年間骨髄性白血病に苛まれた奥さんを亡くし、奥さんを尋ね四国遍路道を歩き、永平寺にも参禅者として10日 雲水と共に生活した工学博士の参禅者が、当山枯木堂で坐禅し、「あゝあゝ、家内はここにいる。」と自覚なさいました。
さらに、父親が三年前、癌を気にしながら闘病生活の最中、家の西側の木にロープをからめ命を断ちました。それから三年たち、避妊治療しながらやっと授かったひとり娘が職場のしがらみに苛まれ車庫の梁にロープを渡し亡くなりました、・・・これからわたしはどうしたら・・」と、この悲劇の悲劇を救ったのも坐禅と只管一行の仏行です。
坐禅は、人の頭を冷静にし、現在にどっしり足をすえさせ生活させる最良の手段、方法です。
坐禅は、仏教の・坐禅宗の専売特許に非ず、万民の宝です。
宗門の方々が坐禅を行うぜず、ただ伝統あるお寺にのみしがみ付いていては、十年二十年したら坐禅を外国から輸入する歯目になるのでは無いかと危惧する次第です。
興雲寺 大閑勝春 九拝